工藤静香さんは80年代の代表のアイドルで今も歌手として活躍されていますね。
夫は知らない人がいないと言っていいほど有名な木村拓哉さんで、次女は最近モデルデビューしたkokiさん。
有名すぎる芸能一家ですね。
- 彼女の兄がバイク事故を起こしたとか!?
- 画像はあるのでしょうか?
- 事故死(死亡)したっていうのはホントなのでしょうか?
そんな工藤静香さんの兄弟構成について!
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工藤静香の兄弟構成が知りたい!!
工藤さんの兄弟構成はどんなものなのでしょう?
夫があの有名なキムタクで娘も今大注目のkokiということばかり頭に入ってしまって全くと言っていいほど工藤さんの兄弟については知りませんでした。
2歳年上のお兄様がいます。
子供の頃、兄と一緒に外で遊ぶのが好きでよく川で泳ぎ、女の子遊びはしなかった。
若い頃の工藤さん、かわいらしいと言いますかとっても美人ですね。
2歳年上のお兄様がいて子供のころはお兄様と活発に遊んでいたんですね。
昔より工藤さんはほとんど知らないので今の雰囲気から想像すると活発な印象はあまりないですね。
ということで、工藤さんはお兄様と2人兄弟ということになりますね。
お兄さんはバイク事故で死亡した?画像はあるの?
唯一の兄妹を亡くされているという話があります。
工藤静香さんが小学生のころにお兄さんをバイク事故で亡くされたようです。
早いお別れだったようです。
しかし、2歳上のお兄様のわけですからバイクに乗っていたのかバイクにひかれての事故なのか詳しくはわかっていません。
お兄様は工藤さんと違い、一般人なのであまり情報を出さないのでしょうか。
画像も載っていないようです。
兄が事故死…そして父親も亡くなっている
お兄様も早くに亡くされている工藤さんですが、ここ最近お父様も亡くされているようです。
工藤静香さんのお父さんの名前は工藤勘七さん。
お父さんの職業は板前さんで、JR小作駅(東京都羽村市)近くに小料理屋さんを開き、店を切り盛りしていました。
また勘七さんは静香さんの影響で油絵を描くことが趣味になり、1996年には権威ある「二科展」に親子入選を果たして話題を呼びます。
そんなお父さんでしたが、2005年7月16日虚血性心不全のため62歳という若さで亡くなりました。
お父様も素晴らしい才能の持ち主だったようですね。
しかし、若いうちにお父様も亡くされて大変な思いをしてきたのでしょう。
若いうちから芸能界入りを果たした工藤さんですが、プライベートではとても大変な思いをしていたようです。
アイドル時代に自分を出し、注目されていたわけですがプライベートの大変さを出さないキャラクターが好印象だったのでしょう。
家族のこともいろいろ言われてしまう芸能界ですので大変ですね。
しかしこれからは、今大活躍中の娘のkokiさんに期待されることとなるでしょう。
若い頃と変わらずのキャラクターで観てみたい気持ちもありますね。
現在に至るまでのアイドル時代
よくTVに出ているというよりも時々の出演の印象に思います。
夫の木村さんも私生活のことはもちろん、奥様の話もされないので工藤さんのイメージがあまりわかないですね。
東京都立板橋高等学校→ 日本音楽高等学校・編入・中退。
血液型はB型。
愛称は「しーちゃん」、「しずちゃん」、「しーはん(しぃはんの表記揺れあり)」。
「愛絵理」(あえり)名義で作詞をしている。
身長は161cm。
オリコン12年連続TOP10入り、現時点でシングル11曲オリコン1位獲得、アルバム4枚1位獲得をしている(オリコン調べ)。
学歴はあまりきれいではないようですが、14歳の頃から芸能界に入り今年34周年のようです。
幼い頃から芸能人として活動しているのでしょうがないですね。
青森県出身の板前の父と、美容師の母の下、幼少期を青森、および東京都羽村市で過ごす。小学生の時には劇団「東俳」に所属。
1984年、中学2年生の時に、第3回「ミス・セブンティーンコンテスト」(応募総数は歴代最大18万325人)に出場し、特別賞を受賞。同コンテストの出場者には、後に同じグループとなる国生さゆり、渡辺満里奈の他、渡辺美里、松本典子、網浜直子、麻倉あきら、清原亜希などがいた。
同年、同コンテスト出身の木村亜希(後の清原亜希)、柴田くに子(後の森丘祥子)と”セブンティーンクラブ“を結成し、翌1985年1月にCBSソニーからレコードデビュー。しかし、2枚のシングルを発表し解散。
小学生のころから劇団に入っていたようなので芸能界入りは本人の夢だったようですね。
コンテストの出演者を見るとすごい方たちばかりの集まりです。
今からは想像もつかないキャラがあった
勝手ながらおしとやかのイメージがある工藤さんですが、アイドル時代の若い頃はキャラがすごい濃かったようです。
高校へ進学後の1986年5月、事務所の勧めで出演したフジテレビ系『夕やけニャンニャン』のオーディションコーナー「ザ・スカウト アイドルを探せ!」で合格し、おニャン子クラブの会員番号38番となる。
既に歌手活動をしていたことが知られたが、突出した玄人っぽさを見せることは無く、クイズ等で見せる「バカキャラ」(自ら「だってあたしバカなんだも〜ん」と発言したこともある)や「ヤンキーキャラ」(バイクが大好きと公言など)で注目されるようになる。
おニャン子クラブは学業最優先が原則であったが、工藤はあまり真面目に学校へ通っていなかったことを後に告白している。
1986年10月、渡辺満里奈のソロデビュー曲「深呼吸して」で生稲晃子とともに“withおニャン子クラブ”としてバックコーラスを担当し、徐々に頭角を現す。
工藤さんのキャラについて真逆のイメージを持っていました。
バカキャラとヤンキーキャラで注目され活躍することも増えたんですね。
想像がつかな過ぎて…昔の映像を観てみたい気もしますね。
たくさんの結果を残してきたアイドル時代
おにゃんこクラブを卒業し、ソロ活動してからもたくさんの結果を残したようですが、それまでにもたくさんの結果を残していたようで、アイドルとしてとてもすごい方です。
1987年5月からは、生稲晃子・斉藤満喜子ともに派生ユニット”うしろ髪ひかれ隊“としての活動も開始。
直後に発売されたおニャン子のシングル「かたつむりサンバ」ではフロントボーカルに抜擢されるなど、終焉に向かっていたおニャン子クラブの中で人気、知名度を上げていく。
セブンティーンクラブやおニャン子クラブ時代の活動やエピソードなどをテレビ番組のトーク等で話題にすることもある。
コンサートで「会員番号の唄」の自身のパートを歌うこともあった。
NHK『ふたりのビッグショー』(共演は工藤のモノマネを得意としていた森口博子)で「セーラー服を脱がさないで」の一節を振りつきで披露した事もある。
おニャン子クラブ時代「くーにゃん」という愛称があったが、本人曰く「くーにゃんと呼んでほしくない」とニッポン放送のラジオ番組関根勤のTOKYOベストヒットで公言している。
別冊宝島の調査によると、1980年代のシングル総売上げは年間ベスト50位以内のものに限っても254.6万枚と当時の女性アイドル中4位であった。
年間ベスト50位以内ランクイン曲数は10曲と当時の女性アイドル中3位。
同じく1980年代、当時の女性アイドル中年間シングルオリコンチャート最高位の座は1回獲得している(1988年)。
どんどん這い上がり、人気も知名度も上がってきて今に繫がるわけですね。
性格はハッキリした性格なので、自分が思ったことを正直に言うみたいでハッキリしていていいですね。
後にソロデビューし、アイドルとしてももちろんたくさんの結果を残し素晴らしいアイドルだったようで、最も活躍したアイドルの人たちに入り、【四天王】と呼ばれていたそうですね。